僕はプレッシャーが苦手だ。

 

中学と高校では剣道と吹奏楽をそれぞれ経験してきた。どちらも本番は1度きりの一発勝負。プレッシャーに打たれ弱い性格からか、どちらも最初はまったくよい結果を出せなかった。今回は剣道をピックアップ。

 

市内でも有力とされる中学で、同期には日本代表に選ばれる生徒がわざわざ学区外から来てたほど。練習はそれなりに厳しく、実績がある部活だった。昇級試験というものが剣道にはあって、入部して3ヶ月くらいで全員がその試験を受けることになる。

 

4級、3級、2級と実技の結果で等級があたえられる。数字が1に近いほど取得するのが難しい。初心者が短い練習期間で2級を取ることは簡単なことではないけれど、普通に練習していれば3級くらいはとれる。逆に4級までなると、実績ある中学からはレベルが低くて出ない。うちの中学ではもう何年も4級になる人はいなかった。

 

実際、僕らの学年のほとんどが2級を取得。1人だけ3級。例年通りの結果だ。僕ひとりを除いて。

 

そう。4級を出さない伝統みたいなものがあったのに、僕が破ってしまったのだ。残念ながら。不謹慎なのかもしれないけど、ある種すごいことだと思ってる。そもそも、剣道が向いてなかったんだろうな。

 

実技試験の前は緊張感で苦しく、審査中も息ができないほど。がんばったつもりでも結果はさんざん。

 

同期や先輩からは嫌なこともいわれた。そんな幸先の悪い中学1年のスタート。卒業まで2年半以上もあるわけで、もうそれはそれは最悪だった。

 

けれど、そんな僕でも1年後には日本代表に選ばれているような同級生と同じく、選抜メンバーに選ばれることになった(補欠だったけどね、てへぺろ)。

 

練習をつづけて技量がつまれたのはもちろんだけど、責任感が影響してたといまだに思っている。

 

中学って後輩ができるし、先輩として見本にならなきゃいけないみたいな雰囲気があるのは全国どこでもだいたい同じはず。うちもそうだった。実際、先輩として後輩には振る舞ったつもりだ。だけど、本音は後輩に背中を見せるとか責任の重いことは考えず、練習したいように毎日の稽古を楽しんでいた。

 

1日ずつ素早く動けるようになる自分を発見し、昨日より相手の隙を見つけられる自分になれることをよろこんだ。全部、自分本位だ。

 

「先輩としての自分」は社会的責任感を養う一方で、律する心や遠慮が強くなる。自分の気持ちを優先しづらくなってしまう。

 

たとえば、会社でも似てるんじゃないかな。

 

後輩を育てるために適切な仕事を振ったり、ときにはかばうこともある。それは勉強になるし、成長にもなる。自分らしさや、自分のやりたいことを犠牲にしながら。

 

 

自分本位でワガママな奴は嫌われる。社会は団体行動で成り立っているから仕方がない。僕自身、調和を尊重しない人とは仲良くなりづらい。

 

イギリスの学者にエドワード・サイードという人がいる。プリンストンとハーバードで学位を取得した稀代の秀才。インテリジェンス(知識人)といったらこいつ、というくらい有名な人。

 

そんな彼がインテリジェンスについてこういってる。

 

知識人が相対的な独立を維持するには、専門家ではなくアマチュアの姿勢に徹することが、なにより有効である。

 

この文章が出てくる前後ではプロフェッショナルが社会にどのような形で価値を提供するか考察されている。

 

そして、サイードはプロであっても内輪の権威性をもった人々の集まりを避け、アマチュアの中でメッセージを発するべきだという立場を取っている。たとえば、数名の政治家グループを相手に講義するのではなく、大学生を相手に講演した方が優先されるということ。

 

サイードはアマチュアを相手にすることに関して、こう述べている。

 

自分の講演や本や記事が広範囲の不特定多数の受容者にゆきわたるため、受容者からの反応が予測できないという、公的な領域でのリスクなり不確実性を自分から背負いこむことを意味する

 

それが彼の考える「知識人がなしうる最大の貢献」だからだ。

 

何かに属したからといって、社会の役に立てるわけではなく、むしろ立場が邪魔をすることもある。

 

極端な解釈ではあるけれど、特定の組織や権威性に所属しないことが社会の役に立てることもあるはずだ。

 

話は戻り、次元は違えど、僕が剣道でそれなりに結果を出せるようになったのも自分の立場を無視して楽しむ心が根底にあったからだと思う。

 

社会で生きていると、自分が守らなくちゃいけない立場とか、利害関係が気になって本音で楽しいと思える心を無視してしまいがち。

 

しかも、所属することが評価され、忠実であるほどよいとされる。

 

そんな生き方が楽しいのだろうか。サイードがいうところの「専門分野の枠のなかだけで考えるようにし、とにかく意見統一を優先させ、懐疑を棚上げにせよという誘惑の声」にのまれた姿そのものではないだろうか。

 

インテリという言葉がネガテイブに使われるけれど、それはただの誤解だ。本来あったインテリジェンスは象牙の塔でふんぞりかえった石頭のクソヤローではなく、社会にメッセージを表明する役割がある。

 

そして──これは僕の個人的な意見ではあるけれど──インテリジェンスは学者だけが占有するものではなくて、一般人であっても磨ける教養なはずだ。誰もが知性を磨き、社会にメッセージを表明することができたらいいよねと僕は思ってる。そんなところから、イギリスの知性サイード先生の声を借りてみた。

 

 

参考文献

サイード,エドワード(1998)『知識人とは何か』(大橋洋一訳),平凡社.

 


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