「人は生まれ、死ぬ。そして、また生まれる」──この生命は流転するという、日本でもなじみがある考え方は、もともとインドから伝わってきた。いわゆる、「輪廻転生」というヤツである。日本では輪廻転生というと、仏教のイメージが強いかもしれないが、その思想の原点は仏教よりも以前、インド古代哲学の経典『ヴェーダ』までさかのぼることにになる。『ヴェーダ』は日本で言うところの、『日本書紀』や『古事記伝』といったところだろうか。国の誕生物語は、古くから歴史が守られてきた国であれば、伝説として残っている場合が多い。日本であれば、前述の2つの物語があり、ギリシア神話や聖書など、人類のはじまりを描いた伝説は今も世界中に残っている。

インドの古典といえば、2大叙事詩といわれる『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がある。どちらもインドの過去の伝説・神話を、古代語であるサンスクリット語で記録したものだ。サンスクリット語は日本語では、「梵語」と呼ばれ、仏教の寺や墓で見かけることがある。ヨーロッパでいうところの、ラテン語のようなものだ。2大叙事詩のうち、『マハーバーラタ』は西洋の伝記『イリアス』、『オデュッセイア』と並んで、「世界3大叙事詩」と呼ばれるほどの大作。「大作」というのは、内容が、過去の世代に伝わりつづけるほど、偉大であるという意味もあるが、単純に、内容が長いとも言える。聖書の4倍の長さになるそうで、日本語での完訳は出版されていない。

そんな、世界中に名を知られているはずの、『マハーバーラタ』であるが、名前は聞いたことがあっても、内容まで知っているという人はほとんどいない。知っていたとしても、せいぜい、「戦争の話だ」とか「人が生まれて死んでいく物語だ」とか、概念的な知識がある程度ではないだろうか。今回、「芸術祭十月大歌舞伎」の演目として、その一部が上演されることとなった。インド古典と日本の伝統芸能のコラボとあって、歌舞伎ツウの方々はもちろん、歌舞伎は知らないけれどインドと接点があるという人から注目されている。ちなみに、私は後者で、歌舞伎を観覧したのは今回が初めて。千秋楽を明日に控えた、10月24日の歌舞伎座で行われた「マハーバーラタ戦記」の感想をせっかくなので少し、紹介する。

一見さんにはわからない、歌舞伎の魅力がある

『マハーバーラタ』の説明は上述したので、ここからは、歌舞伎演目としての「マハーバーラタ戦記」について、感想を述べていく。

まず、私が歌舞伎初心者ということもあってか、歌舞伎のイメージがいろいろと崩れた。「服装は正装!気分は厳か!礼儀正しく、観覧なされよ」という、どこか堅苦しさに近いイメージを持っていたものの、実際は、もう少しラフな空間だった。着物やスーツで観覧に来ている人はほとんどおらず、カジュアルな服装の人ばかり。あくまで印象ではあるが、テレビ中継されている相撲試合の方が、厳粛な雰囲気を感じる。歌舞伎は今でこそ、伝統芸能として尊敬されているが、歌舞伎がはじまったとされる約400年前は、現代で言うサブカルだったのかもしれない。幅広い客層と、劇中のユーモアな雰囲気に触れると、歌舞伎は庶民的なものだと感じずにはいられない。

「合いの手」を通してつながる2つの世界

一見さんだからなのか、合いの手の意味が、私にはわからなかった。劇中、「なかむらやっ」など、演者の屋号を、観客が幾度となく叫ぶ。花火でいうところの「たまや〜」である。おそらく、合いの手を入れるタイミングは2つあるようだった。1つは、演者が舞台から立ち去るシーン。「よくやったよ、お前」というような雰囲気で、屋号を叫ぶ方がいる。2つ目は、決めゼリフ(もしくはポーズ)を決めたところで、叫ぶ。どちらの場合でも、叫ぶのは歌舞伎に通い詰めている玄人であろうと思われる。でなければ、2000人も詰め寄った空間で、しかも、演出の途中で、叫ぶことなどできない。プレッシャーがかかるものだ。

しかし、気になるのが、この合いの手が、どのように演目に影響しているのか、ということ。私には意味がわからなかった。劇中に何度か、演者の動きが、合いの手とリンクしている場面があった。沈黙が続き、合いの手が入り、その声と同時に演者が次の動きを始める。偶然、タイミングが重なっただけかもしれないが、演者が観客からの合いの手を無視しているようには見えなかった。

ちなみに、ここまでさんざん「合いの手」と書いてきたが、一般的には「掛け声」と呼ばれるようで、独立行政法人日本芸術文化振興会が運営する「文化デジタルライブラリー」においても、「掛け声」と表記されている。私が、「合いの手」と書いていたのは、単に素人で知識がないから、という理由もあるが、どこか、観客と演者のあいだをつないでいるように感じたことから、無意識に「合いの手」と表現してしまっていたのだろう(こじつけすぎか……)。

場面の切り替わりに追いつけない

歌舞伎役者の顔の違いが、正直、まったくわからない。とくに、今回、4階の幕見席だったこともあり、演者の区別がほとんどつけられなかった。しかし、これは、服装と声でなんとなくフォローすることができる。問題は、時間の流れが変わったときだ。汲手姫(くんてぃひめ)という役があるのだが、若いときの汲手姫は「梅枝」が演じ、年老いた汲手姫を「時蔵」が演じている。主人公の迦楼奈(かるな)も、服装が何度か変わるので、話が少し進んだ時点で「あ、これは迦楼奈だったか」と気づく。ちなみに、私のような歌舞伎初心者のために、歌舞伎座では「イヤホンガイド」という音声ガイドが用意されている。予約席は700円、幕見席は500円でレンタルできる。持ち帰りを防ぐために、1,000円余分に支払わないと貸してもらえないが、返却すると1,000円は返ってくるので、何も問題はない。歌舞伎座は新参者にも、やさしい。人物の区別がつけば、衣装替えの楽しさも味わえるのだろう。

古代インドの世界観がわかりやすく、まとまる

「マハーバーラタ戦記」はインドのわかりづらい世界観を、うまく切り取り、落としどころをつけて伝えてくれた。正直なところ、インドの物語は、もともと内容がとてもわかりづらい。

インドの古典哲学は深遠さがある一方で、抽象概念が多い。たとえば、インドの古典に『リグ・ヴェーダ』というものがあるが、そこには「プルシャ」という生き物が登場する。日本語では「原人」や「巨人」と訳されるが、このプルシャには、眼と頭、足がそれぞれ1,000あると書かれている。もはや、現代人からすると、SF映画に出てくるエイリアン的なものしか、想像ができない。今回の主題の一つとなっている「輪廻転生」においても、「人間が生きては死に、また生まれる。故に、死ぬことなどないのだ」といった趣旨の話が出てくる。正直これは、時間の流れが止まらない舞台で、咀嚼するには深すぎる。観劇中に理解が間に合わない人がほとんどであるし、演者自身も、その言葉の意味するところに、深い確信を持てているかは、定かではないだろう。そもそも、世界中の哲学者が「生命とは何か」という話に頭を悩まし、結論が出ないまま死んでいくことがほとんどなので、わからないのが普通であるし、答えが出るものでもないと言えるかもしれない。

しかし、今回の舞台では、インドの古典が抱える"わかりづらさ"を、歌舞伎演目の時間内におさめ、意味がわかるストーリーとして組み立てられていた。今回の物語では、「人間は生まれ、老い、病に冒され、死んでいく。そして、また、生まれ変わる」という生命観を踏まえた上での、「人間と戦争」がテーマとなっている。一般化と、原作の狭間でうまく折り合いをつけていると感じた。脚本は劇団グリングの青木豪。

インドの物語なのに、日本を感じる

インドの物語というだけで、どこか遠いように感じる。インドには、四季がない。「インドには4つの季節がある。春、夏、暑い夏、もっと暑い夏」というジョークがあるほどだ。実際、インドの冬は数週間程度であるし、夏が終わるとモンスーンという大雨の時期がやってくる。気候が人びとの性格や考え方に影響を与えるのは、イギリス人やロシア人と話していると、十分にあり得ることだと感じるが、やはりインド人と日本人も、生きている環境がまったく違うことから、考え方も違うと感じることが多い。ましてや、『マハーバーラタ』のような古典となれば、その違いは顕著になるのではないだろうか。

しかし、「マハーバーラタ戦記」は、どこか、インドの古典を日本的に感じさせてくれる。登場人物の名前や、起きている出来事は、明らかにインド的なのに、物語にのめり込んでいると日本の昔話と勘違いしてしまうのだ。これは、歌舞伎だからこそできる、「インドと日本の文化融合」であると言えるだろうし、世界中さがしてみても、日本で観る『マハーバーラタ』ならではの特徴だろう。「マハーバーラタ戦記」の演出は宮城聰。宮城聰が歌舞伎の演出を担当するのは、今回が初めてとのことなので、歌舞伎に足しげく通うツウからすると、いつもと違う雰囲気はあるのかもしれないが、私はインドの物語をうまく日本型にまとめあげたように感じた。

「マハーバーラタ戦記」の初演は平成29年10月25日(水)で千秋楽を迎えるが、どこかの機会で再演して、インドと日本の文化的側面での交流が発展することを期待したい。経済ばかり注目されるが、インドは文化も深く、魅力的な国なのだから。

 


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