「お兄さんの足、蹴っちゃだめよ〜」

電車の中。母性あるやさしい声が聞こえてきた。僕の左側には幼稚園ぐらいの男の子が座っている。さっきから左足が勝手に動く妙な感覚があったけれど、どうやらそれはこの子の足がぶつかった感覚だったみたいだ。

僕には小さい頃の記憶があまりない。昔を振り返ってみて、古そうなものは幼稚園に入る前のことだ。母から「入るの、どこの幼稚園がいい?」と聞かれた。ちょうど区画的に幼稚園の選択肢があったのだろう。当時は幼稚園を選ぶ基準なんてわからなかった(今もわからないけれど)から答えに困った気がする。

そもそも僕の人生はこのころから狂いはじめた気がする。いや、正確には狂っていることに気づきはじめた。毎朝、決まった時間に登園し、指示されるままに歌ったり絵を描いたりする。決まった時間にみんなで同じ色をした箱に入った食事をたべる。周りのみんな、とても楽しそうにしていた。その世界を否定するつもりは、あまりない。僕にも楽しいと感じられる瞬間はあっただろうし。

多くの時間はそとの世界をながめ、頭のなかに響く声と対話する。自分だけが世界から隔離された感覚。あれから20年以上経ったいまでも、世間から少し遠のいている自分を感じることがよくある。これはもう生まれもった気質なんだろう。大人になって、さすがに社会に歩みよろうとするけれど、うまくいかないこともある。会社の飲み会とか、上司と部下の関係、社内のチームワークみたいなものも人形劇をしている気分になるので好きじゃなかった。

30歳も近くなると、同年代で老けた人も増えてくる。初対面の同い年の人に「同世代ですねぇ〜」と言いながら、心の中で「……(え、この人、歳おなじなの?落ち着いてるっていうか、老け込んでないか??)。」と感じることもたまにある。僕も落ち着いてるとか、若々しさが足りないとか言われ続けているから、老けてますねとか人のことを言えないかもしれないが。だけど、いるんだよ、おっさんっぽい人って、けっこうたくさん。

女性は総じて若々しさがあるのに、男性は老けて見えるのはなぜなんだろうか。

社会に適合しきっていたり、自分の意思みたいなものがほとんど息をしていない人もいる。大きな会社で勤めている人とか、とくに。これが「大人になる」ってことなのかなというくらい人格が社会性におおわれた友達も多い。そういう社会的に認められた人たちと話すたびに「あぁ、自分はやっぱりこういう世界では生きていけない人なんだな」と感じる。話の内容は通じ合えるし、理解できることも多いけれど、話している人の雰囲気がまったく違う。オーラっていうとふわつく感じするけど、その人がまとってる雰囲気がある。

「お兄さんの足、蹴っちゃだめよ〜」冒頭のやさしい声は僕にそんなことを考えさせてくれた。

なにかというと、敬称につかわれている"さん"だ。そうか、僕は「お兄ちゃん」じゃなくて「お兄さん」なのだと気づいた。「おじさん」になる日もいつかやってくる。そんなことを考えていると、やりたいように120%自分を発露していきたいなと思ったりする。

「やりたいことして生きる自由人」みたいなバカがバカを狩る詐欺をインターネットの世界でたまにみかける。社畜だなんだと、むやみに煽ったり。やりたいことだけして生きるなら僕はずっと木登りしてるかな。だけど、木登りを一生続けることにはなんの生産性もない。ただのサルだ。せっかく人間やってるのに、サルになって生きることに僕は意味を見出せない。

だけど、たまにだったらサルになるのも楽しい。生産性と非生産性を繰り返しながら、自分にできる価値をつくれたら、人生楽しいんじゃないかな。

金に目がくらんだサルになるつもりはないし、武勇伝かたるだけのおっさんにも、なりたくない。自分らしい人間でありたいなって、顔もしらないひとりの女性が気づかせてくれた。

 


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